『万葉集』に、「鴨頭草(つきくさ)に衣(ころも)色どり摺らめども移ろふ色といふが苦しさ」と詠われている、鴨頭草(つきくさ)は、朝早く月明かりの中で花を開き始める事から、「月草」・・「鴨頭草」と呼ばれた「露草」のことです。

「摺らめども」との語意を考えると、浸して染めるのではなく、花びらの絞り汁、又は花びらを布に包み込んだ「タンポン」のようなもので、布に擦りつけ、摺り染めの技法で色を付けたものと思われます。

宮中で行われる「大嘗祭」の時に、舞を奉納する女性の着る衣を「小忌衣(おみごろも)」と言いますが、これは日本最古の染料の一つと言われる、「山藍」の葉汁を刷り込んで模様をつけたものです。

天智天皇大津京の時代、往来が多くあった半島からの渡来人によって広められ、このころから栽培種として「露草」とは異なる、「青花(オオボウシバナ)」の原型が現草津市周辺で、染料目的に作られていたとの説もあります。

平安時代中期に紫式部によって書かれた「源氏物語の」中に、次のような記述があります。
「御直衣花文綾を、この頃摘み出したる花して、はかなう染め出たまへる。いとあらまほしき色したり・・・・・・」この表現から、万葉集にある数首の「鴨頭草」にまつわる歌には、全て「摺り」と言う意の言葉が使われていますが、平安時代に入り、染め(浸染)で色を付けていたことがうかがえます。

この様なことから考え合わせると、古い時代から青花(露草)は、染料として使われていたであろう事を知ることが出来ます。ただし、「紫紺」「櫨」などのように千年を越え、今の世まで衣服に柄を付けたり、生地に色を付けたりする目的でのみ、使い続けられたものではなかった、それは極端に染料としての堅牢度が弱かった為です。

茶屋染めは茶屋辻とも言われ、麻布に糊置きをし藍の濃淡だけで染め上げたもので、武士の夫人が夏の衣装(帷子)として着用していました。

江戸時代に入り、絵師宮崎友禅斎が茶屋辻の技法をベースに、緻密な、多色豪華絢爛の京友禅を開発しました。茶屋辻が武士階級だけ、夏だけのものだったのに反し、京友禅は四季を通じた衣装として、広く大衆に受け入れられ、花開いたのです。

それとともに下絵用の「青花」の需要は急激に増加し、草津の特産品として、その地位を揺るぎないものにしていきました。染め付きの弱さから、染料としての地位を確立することは出来ませんでしたが、それが幸いし、緻密な糊友禅の下絵、「絵具」として脚光を浴びたのです。下絵を描いた上に「糊糸目」を置くのですが、この作業が終わると、青花で描いた下絵は邪者になります。その邪魔者が、水で洗うだけで糸目糊を残し、きれいに消えてくれるのです。

この青花「絵具」を保存、持ち運びしやすくしようと考案され、生まれたのが「青花紙」です。歌川広重の浮世絵などに、「青葉摘み」「青花紙」の製法が、今と変わらない姿で描かれています。300年以上全く同じ手法、技法を守り通してきた「青花紙」の製造技術は、私たち郷土の誇る大切な文化遺産です

龍谷大学教授 阪本寧男先生が、著書「アオバナと青花紙」で次のように述べておられます。

室町時代にすでに「青花」を売買する業者の集団である青花座の本所が京都の薄家にあり、座人の外に商売する者を幕府に訴えたという記録がある(史料 京都の歴史4、1981)。辻村(1983)は、この「青花」はおそらく青色の絵具として用いられていたもので、下絵の絵具として用いられたのは、もっと後代の桃山時代末期の茶屋染ではないかと推察している。 ただし、この当時の「青花」が現在のものと同じ「アオバナから作られた青花紙」であったのかどうかはわからない。まったく別のもの、またはツユクサからつくつた青花紙である可能性も否定できない。

青花の栽培が、 いつどこで、どのようにして始められたのか定かではありませんが、今の山田付近が発祥の地であったようだと言われています。それを裏付ける説話、民話が伝えられていますので紹介をします。 アオバナのルーツにまつわる説話(阪本寧男著「アオバナと青花紙より引用)

アオバナのルーツにまづわる説話 アオバナが古くから栽培されてきた草津地方では、アオバナについて次のような民話が語り継がれてきた。中神良太氏は、『草津風土記』(1995)にアオバナの起源についての短い伝承を記録している。

「今から約二百年ほど昔の天明時代(1781~1788)の頃のこと、山田村字木川郷に住む一人の老人が、草津川に流れてきた珍しい霧草(注‥露草のあやまりか)を持ち帰り畑に植えた。其の花は大きく美しいため、たちまち村中の人々の間に広まり栽培されるようになつた。ところが、たまたま絞り模様の下絵描きに用いる植物色素を探していた京都の友禅問屋の目にとまり、ぬしやの知恵を借りて青花紙を作るようになった」

アオバナの起源説話 (木ノ川老人クラブ)

むかし近江の国の石原という代官のもとに、木の川村という貧しい村がありました。 その村に、病気の母と、きよという娘がその日暮らしをしておりました。きよは貧しい暮らしにもかかわらず、ほんとうに心やさしい娘でした。

ある日のこと、きよは夢の中で観音様のお告げを開きました。 「あすの朝早く、草津川の土手の上の一本松の所へ行きなさい。あす一日食べるだけのお米をさずけましょう」 きよは次の朝起きるとすぐ一本松の下へ行ってみました。松の木の下に箱が置いてあり、白いお米が入っていました。きよはその中から、その日の食べ料を少しばかり頂いて帰りました。

きよは次の朝も草津川へ出かけてみました。すると同じように白いお米がありました。きよはその日も、少しもらって帰りました。こうして五、六日の間は毎朝通い、その日その日のお米を頂いて帰ることができました。 貧乏なきよの暮らしもこれで大変楽になったのですが、そのうちに、きよの心に欲のきざしが現れてきました。毎日、その日の分だけでなく一度に全部もらって帰ることにしたのです。

次の朝きよが行ってみると、白いお米でなく、なにやら食べられそうもない黒い粒が入つているのでした。 「ああ、私が欲の心を出したばかりに、母様においしいご飯もさしあげられなくなつてしまった。どうぞお許し下さい」 きよはそれから毎日、観音様に許しを乞いました。 苦しい日が続いたある夜、きよはまた夢の中で、観音様のお告げを開きました。

「お前が欲の心を出したので、白いお米を黒い粒に取り替えたのだ。黒い粒は青花の種で、それをまくと青い花が咲きます。それを摘みとって紙にしみ込ませなさい。京の友禅問屋で買いとってくれます。それで食べて行けるでしょう」 というのでした。きよは急いで黒い粒をとりに行きさっそく畑にまいてみました。 するとお告げの通り、夏、青い花がたくさん咲きました。朝早く、それを摘んで汁をしぼり、紙にしみ込ませます。乾かしてはしみ込ませ、乾かしてはしみ込ませる炎天下のそれは苦しい仕事でした。その上、この青花紙は雨や汗にふれると色が流れて、その紙をだめにしてしまいます。暑い中での気苦労は大変なものでした。

こうして、できたものを、京の友禅問屋に持って行きますと、下絵を描くのによいので、思わぬ値段で買いとってくれました。 きよは毎日、早朝の花べん摘みから、カラスのぬれ羽色に和紙が仕上がるまで、身を粉にして働かねばなりませんでした。地獄花ではなかろうか、と思ったこともたびたびでした。しかし、その代わり、この仕事で無事に暮らして行かれるようになりました。母様の病いもなおり、そのうちに近所の人々もこれを見習って、きよから種をわけてもらい、この花をつくるようになりました。 こうして、青花からとった青花紙は、近江の国の特産物にまでなりました。 青花は、いまでも高級な友禅染に使われています。水で色がさらりと流れ落ちる特性を、うまくとり入れたものと思われます。青花はいまの露草のことで、ずっと昔はツキクサといい、万葉集の中でも歌われています。

「あおばな」の栽培農家は最盛期には500軒を越え、山田、下笠、上笠を中心に、栗東、守山にまで広がっていたようです。

 

青花紙一覧 文部省博物局・教草復刻版、つかさ書房、1980

青花ハ鴨跖草(つゆくさ)の花なり、鴨跖草ハ何国にも自生の夥しき物なれども、近江国山田郷にて作るものハ、一種大葉のものにして、花弁の大さも常品に十倍す、故に青花紙を製するにハ、必是種を要する也、鴨跖草の種法ハ、冬月向陽の地に下種して苗を生す、三月の末に至りて畑地へ移栽へ培養す、肥ハ人糞、油渣等を用ゆ、夏用土用前より花を開く、野生の者に比すれバ、格別大にして、且美なり、毎朝露を侵し花弁を摘釆る、紅花(べにのはな)を摘むが如し、此花を用ひて汁を絞り、紙に染込たるもの、即青花紙なり、又ボウシ紙とも云

青花紙を製するにハ、先づ花を搾り、液を収むることなり、花を搾るの法ハ、花弁の生鮮なるものを撰び取り、塵芥をよく去り、竹篩いにて雌雄蕊并黄粉を篩ひ除け、桶に入れ圧板を載せ、枕木をかひしめ、木を以てしめかくれバ、青汁自から流出づ、桶の下に呑口を付け、承るに盤を以てし、他に漏れざらしむ

紙を染むるの法ハ、美濃上有知(こづち)村にて製する花口紙一帖四十八葉の紙を染台の上に延べ、刷毛を用ひて青汁を蘸(ひた)し、一帖畳(かさ)ねたるまゝ刷(は)き染むるなり、紙の両角に些少の余白を止め、日光に曝し乾すなり、白を止むるゆへんハ、乾上りたる後、畳ねたる紙、花液の為に粘合したるを引離すに便利ならしめんが為なり、右の紙乾き

上りたれバ、此度ハ一帖の紙を十二箇に分ち、一箇四葉づゝ畳ね置き、再び青汁を以て刷き乾かす、又其次にハ二葉づゝ畳ね、又前の如く青汁を刷き乾かす、是より後ハ幾度刷きても皆二葉づゝ染むるなり、一葉離して染むることなし、右の如する都合五十度より六十度に至る、始めて好き青花紙となる、夫を二帖合して一束と名く、即九十六葉也、四辺を剪揃へ、箱に入れ方物とす

青花を作る村数凡五十箇村、戸数凡三百五十軒、慶応丁卯年産出三千一百十帖、価金一千五百四十九両一歩二朱、明治辛未年産出一千五百七十帖、価金一千二百六十八両 青花ハ青を染むる品の内にて、別して鮮明なるものなれども、惜むべきは染上たる後一度水に入れバ、忽消滅して痕なし、仮令水に湿ハざるも、日を経れバ色減じ、久く保つ能ハ

ざるなり、夫故衣服模様の下絵を画くにハ是非とも青花を要するなり、其他菓子を染め、

燈籠を彩(あや)どるなどに妙とす、火を映(うつ)して色黯(くらま)せざれバなり、青花紙用法ハ、一葉の紙を入用たけ剪刀(はさみ)にて剪(き)り取り、碟子(こざら)に入れ、水を澆(そそ)げバ、乍ち青汁出づ、或ハ些の米醋(す)を加ふ、尤能く色を発す、且水を澆きて発す、快く消散し、毫も影子を止めざるなり

                 明治六年一月       山本章夫 撰    溝口月耕 画

花口紙の意味は不明。ふつうは典具帖を用いる。「倭漢三才図会」は伊勢、近江で産すると記し、「毛吹草」は近江 の物産とし、「近江輿地志略」は藍花紙と称し、草津留守川の産とする。また「東海道名所図会」には、近江山田棚 草津辺の名産として、青花紙の製造図をのせる。 慶応丁卯は三年で1867年、明治辛未は四年で1871年。

上の絵図と文章は阪本寧男著「アオバナと青花紙」より引用させて頂きました。

あとがき 青花の歴史について私なりにまとめてみました。 過去をふりかえる時、時間の壁という眼鏡をかけて眺めます。実際を目撃した人がいないということは、眼鏡によって見え方が変わる、ということです。 歴史はこれが真実、と断定することは難しく、様々な考え方があり、本稿もその一つとお考えいただきたいと思います。 拙稿をご覧いただいた皆さま、眼鏡をかけかえながら過去をふりかえることにより、先人達の営みに想いを馳せ壮大なロマンを楽しんでいただければと思います。                                                                                                 編集委員 白峰    

                                     

参考文献
アオバナと青花紙 阪本寧男・落合雪野(サンライズ出版)
染料植物譜 後藤捷一・山川隆平(はくおう社)
古事類苑 58 植物部・金石部1 古事類苑刊行会
古代染色二千年の謎とその秘訣 山崎青樹(美術出版社)
日本の色 : 植物染料のはなし 吉岡常雄(京都 : 紫紅社)
日本服飾史 谷田閲次・小池三枝(光生館)
延喜式. 上 虎尾俊哉(集英社)

 

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