和歌山県新宮市の徐福の墓の横にある徐福顕彰碑には、次のように記されています。
「後の世の人が昔のことを思い見るのは、ちょうど、月夜の晩に遙か遠方を眺めるようなものである。そこには何かあることはわかっているが、その形をハッキリ知ることはできない。」・・・・・・・・・・・・・・
歴史、特に古代史を語ろうとする時、これだと言い切ることは出来ません。しかし探っていけば行き着くところに何かが有ることは間違いはないのです。・・・・・・

私たちの故郷、笠縫も縄文時代より続く長い歴史があります。しかしこれだっ、と断言することは誰にもできません。笠縫の歴史をロマンとして語る・・・遙か月明かりの彼方を見る様に・・そんなページにしたいと思っています。

尚、このページを作るに当たり、平井町、長善寺の前ご住職 片山恵潤先生 の著書「笠縫史略」から多くを引用をさせて頂きました。又数多くの資料をご提供頂きました事を心から感謝致ます。

縄文時代の人達は湖岸近く(今の湖岸線と古代とは大きく変化をしています)と、内陸に分かれて住み、琵琶湖での漁、陸地での狩猟で生活をしていたようです。住居跡の遺構はまだ発見されていませんが、出土した遺物から考察すると、「志那湖底遺跡」「津田江湖底遺跡」「烏丸崎遺跡」などの湖岸付近、「片岡遺跡」「檜皮堂遺跡」「宝田遺跡」などの内陸部に分れていたことが解ります。

弥生時代に入り、狩猟生活から農耕生活へと変化をしていくのですが、笠縫地域には他地域に比べ遺跡が極端に少なく、農耕生活を営む上であまり恵まれた地域では無かったのではないか、と考えられます。

草津川と葉山川に囲まれる笠縫地域は、沖積砂礫層で覆われた肥沃な土地だったようですが、琵琶湖の水位が不安定であったり、河川の溢水が頻繁にあったりで、生活の安全、安定農耕には問題が多くあったようです。
しかし、比較的温暖な気候に恵まれた現草津市域に残る遺跡からは、多くの人達が住み、賑やかに家族の営みが行われていた事を、うかがい知ることができます。

古墳時代の遺構、遺物もなぜか笠縫地域からは発見されていません。しかし、この時代既に笠氏がこの地を治め、大きな地域社会が構成されていたことは間違いないようです。
冒頭で述べた「徐福」は、秦の始皇帝に征服された民族の一人で、方子(医師)として仕えた人です。始皇帝から、不老長寿の薬を探すようにとの命を受け、3000名の男女と共に日本に渡ってくるのですが、そのまま我が国に住み着き、農業、工業など、大陸の先進技術、文化を日本に伝え、弥生時代、古墳時代から、聖徳太子の時代へと続く、日本国の幕開けに大きな力を尽くした人とも云われています。

笠氏は中国を拠点にした天皇家の血筋を引く豪族で、聖徳太子とのつながりも強いものがあったのではないでしょうか。又徐福の子孫ではと言われる、「秦一族」とのつながりも、聖徳太子をを介してか、あるいは聖徳太子を含めて強いものがあったのではと考えられます。芦浦にある「観音寺」は、聖徳太子の命を受け、秦河勝が建立したと云われています。この秦河勝は京都太秦に拠点を置く「秦一族」の長でした。

いずれにしても、出土品などから学術的に検証されたものではなく、伝説の域を出ませんが、湖東地域一円に残る、太子開基によると云われる十数カ所の古代寺院跡、そして下物の「花摘寺跡」、その付近に残される「物部守屋」に追われた太子を、村人がかくまったと言う説話など、太子にまつわる伝承が数多く残されています。

下物付近がこの時代法隆寺の寺領であった事などとも考え合わせると、半島からの渡来人の往来も多く、文化度の高い社会が、「笠氏」「聖徳太子」の連携によって、形成されていたのでは?・・・と考えるのはあまりにも飛躍しすぎることでしょうか。

「笠氏」によって建立されたと伝えられる、「医王寺(上之笠堂)」孝徳天皇・白雉33年(682)・「西照教寺(下之笠堂)」文武天皇・大宝元年(701)共、発掘調査では建設当時の遺構はまだ発見されていません。しかし医王寺については、現在の上笠天満宮付近に「講堂町、伏拝、坊の後」など堂宇があったことを偲ばせる地名が残っており、創建時は敷地1町半四方(約4,500坪)、七堂伽藍が建ち並び、70名を超える僧侶が仏に仕える堂々たる寺院であったと伝えられています。

上笠天満宮所蔵 医王寺上之笠堂絵図

笠縫史略より引用

また下之笠堂は遅れること20年程して、下笠西照寺付近に建立され医王寺に匹敵する規模の偉容を誇ったと言われています。

下笠西照寺所蔵 西照教寺下之笠堂絵図

笠縫史略より引用

近接した地域にわずか20年程の間に、これだけの寺院を建立することのできた「笠氏」の強大な力と、我が郷土「笠縫」が当時如何に重要な地位にあって素晴らしい文化を誇っていたか、をうかがい知ることができます。
ただ不思議なことは、これら建築に携わったであろう人達の生活の跡が、いまだ発見されないこと、両寺院の遺構が発見されていないことです。きっと笠縫の土中深く白鳳期の燦然と輝く文明が手つかずで眠っているのではないでしょうか・・・・・

中大兄皇子が中心となり大化の改新が断行され、それまで地方豪族が分散統治していた我が国の政治体制が大きく変化し、天皇を中心とした中央集権国家として「日本国」の基礎が確立されることになりました。その後、下之笠堂が建立された直後、大宝2年に「大宝律令」が施行され「日本国」としての形がはっきりとしたものになり、地方に郡制が布かれるようになったのです。
これにより、笠縫地区も大和朝廷下「日本国(倭国)」の一地域として、変貌をしていきます。

延喜式・和名類聚抄に見られる「近江(淡海)の国」の郡名

滋賀 栗太 甲賀 野洲 蒲生 神崎 愛知 犬上 坂田 浅井 伊香 高島

これを見ると1300年前にはすでに今の郡名が出来上がっていたことを知ることができます。
又、栗太郡には、瀬田郷・木川郷・梨原郷・物部郷・治田郷の5郷があったことが記されています
このうち、梨原郷には、笠荘・駒井荘がありました。(下の図を参照して下さい)
笠縫史略より引用

後世5郷の内、なぜか梨原郷の名前だけが消滅しています。
笠縫という地名がいつどのようにして生まれたか?、謎の多いところではあるのですが、はっきりしているのは明治11年に郷土史編纂に際して、当時の人々が叡智を集め、地域の名前を歴史的にゆかりのある
「笠縫」
と決定したことが始まりです。
笠縫史略より引用

その後明治22年町村制が施行され、
上笠村・野村・平井村・川原村・駒井沢村・新堂・集村・下笠村が合併して「笠縫村」が誕生した時、地図に正式に「笠縫村」の名称が記載されるようになりました。
(現在の上笠1丁目付近を「上笠中村」と言い、「野村」「川原村」3村を一つにして「上笠村」と呼んでいましたが、その後延宝5年(1677)に3村を分離し、現在の地域構成になりました)

古代から「笠縫村」誕生までを見てきましたが、まさに月明かりの彼方にぼや〜っと何かが見える、そんなミステリアスな歴史が我が郷土にもあります。先人達が残してくれた素晴らしい文化遺産、そして歴史を私たちでしっかりと次代に繋いでいきたいものです。これからも検証、調査を重ね少しずつでも月明かりの彼方がはっきりしてくれば、そんな願いを抱いています。

中世から現在に至る歴史事象は歴史年表をご参照下さい。

あとがき

笠縫の歴史について私なりにまとめてみました。
過去をふりかえる時、時間の壁という眼鏡をかけて眺めます。実際を目撃した人がいないということは、眼鏡によって見え方が変わる、ということです。
歴史はこれが真実、と断定することは難しく、様々な考え方があり、本稿もその一つとお考えいただきたいと思います。
拙稿をご覧いただいた皆さま、眼鏡をかけかえながら過去をふりかえることにより、先人達の営みに想いを馳せ壮大なロマンを楽しんでいただければと思います。
                                                                                               編集委員 白峰                                            

参考文献
笠縫史略 片山恵潤 編
草津市史 草津市史編纂委員会
草津市百年の歩み 水野全雄(草津市教育委員会)
近江国栗太郡村誌 草津市
近江栗太郡志 栗太郡役所
近江輿地志略 小島捨市(西濃印刷)