江戸時代に、日本の二大街道であった東海道と中山道が分岐・合流する地であったことに代表されるように、草津は古くから交通の要衝として栄えてきた。そして、近代的な交通整備が飛躍的な発展を遂げた戦後からの成長期にあって、草津をとりまく交通体系は、交通の要衝であるというその歴史的な土地柄を継承しながら変化・進展し、まちも同時に発展していった。今、交通至便な京阪神の近郊都市として注目されるにいたったその基盤は、この時代になされたさまざまな交通体系の整備により築かれたものにほかならない。
敗戦から昭和29年に市制が施行されるまでの間は、苦難の多い復興の時代であった。しかし、市制施行後の昭和30年代、40年代は、経済の高度成長期を経て、市内の風景が大きく変わった時代である。農村の藁葺き屋根が瓦屋根になり、街では鉄筋の建物が出現する。日本の長い歴史をたどってみても、最も急速な景観変貌を遂げたのがこの時期であった。そして、現在でも日々変貌している草津では、そう古くはないこの間の風景も、今となっては極めて貴重な過去の一場面となっている。

1 草津マンポ(明治19年)


明治19年2月25日に、総工費8,736円を掛け草津川の下を通り、草津本町と大路井を結ぶトンネルが完成する
人々は「草津マンポ」と呼び、草津の新名所としなった。





郵便業務は江戸時代からの宿駅制度の系譜を引くものであり、明治4年(1871)に郵便取扱所が草津にも設置され、のちに郵便局舎ができる。
写真は五丁目(現3丁目)の西側にあったもの。







東海道草津宿の追分見付といわれたところに、明治20年(1887)草津警察署が新築された。赤煉瓦をフランス積みにし、屋内には螺旋階段、2階正面にバルコニーを配した栗太郡最初の洋風煉瓦づくり建築で、当時の人々の耳目を驚かせた。警察署としては昭和29年まで、のち商工会事務所などに転用されながら、草津の明治建築として昭和56年まで存続した。





草津川の横町から大路井に架かるコンクリート製の橋梁。このころまでは土橋、レンガ造りの工法が主流であったが、昭和に入るとコンクリート工法が用いられるようになった。写真は竣工式後の渡り初め。



43 草津競馬場(昭和初期


御大典の記念として、昭和6年(1931)に草津駅の西側(現A・ス
クエア)に開設された滋賀県最初の常設競馬場。スタンドは木造
であったが、2万人を収容でき、レース開催ごとに競馬場を満員にする多くのフアンが訪れた。開催日には京阪から臨時列車が走り、草津駅には臨時改札が出来るなどの盛況ぶりであった。



63 栗太銀行大路井派出所(大正5年)


明治30年(1897)に開設された栗太銀行は、第一次大戦後
の好景気に乗じて発展を遂げ、支店を拡大していった。大
正4年(1915)には、草津駅前のサンサン通りと中山道の
交差点東北角に大路井派出所が新築された。写真は、その
竣工時のものである。洋館建てで、同行の力を世に誇るもの
であったが、昭和2年(1927)の金融恐慌を契機に経営は
一転し、同年休業整理に追い込まれ、昭和5年には解散に
至った。






草津川堤防の上から望んだ光景で、街道筋の雑踏がうかがえる。当時、近在の人々にとって、年に2度開かれる市が「ハレ」の日であり、待ち望んだ催しであった。






江戸時代の矢橋の渡しに代わり、大津紺屋ケ関と元山田を結ぶ航路が明治になって開かれる。写真は山田港で、琵琶湖から山寺川を遡上して内陸部に入っていた。のち、水位の低下等によって、この山田港は山寺川を下った琵琶湖寄りに移された。明治22年(1889)以後は、鉄道に花形をとってかわられるが、昭和30年ごろまでは、人々の交通手段として頻繁に利用されていた。





昭和9年(1934)9月、大型の台風が四国室戸岬付近から若狭湾へ抜けた。市域では20名もの死者を出す被害を出したが、中でも山田小学校は校舎が倒壊するなど悲惨なものであった。復旧作業は翌日から始まり村の消防団や栗太農学校の生徒も応援にかけつけた。





昭和13年7月の豪雨による草津川決壊は、志津村大字馬場で大きな被害が出た。復旧作業は、トロッコを利用して土砂の搬出などが行われた。





昭和13年(1938)草津川の堤防決壊では、応急築堤によって被害の拡大を阻止しようと努めたが、それも空しく延長110mにわたってふたたび堤防が崩れる被害が出た。写真は応急築堤作業の様子で、杭木を組んで土砂を積む作業が行われている。




中央を縦に直進するのが東海道。草津のまちから先を直進するのほ中山道で、守山付近までがみえる。一方、手前から画面右方を右上に向かう筋が国道一号で、当時は道路沿いに街が形成されていた。また、中央左寄りをくの字型に走るのが国鉄で、曲がった部分が草津駅である。駅の西の綾羽紡績草津工場はまだなく、かつてあった競馬場のコースの跡形をみることができる。中央の池は、現在市役所が建った込田池。





昭和初期、人々の娯楽として映画が登場。草津にも映画館が建設された。写真は現大路1丁目、草津温泉に隣接した文栄座。近年までグリーン劇場として存在した。





松原中学校は、旧弾正青年学校跡をそのまま利用し、昭和22年4月から笠縫・山田の2カ村組合立の新制中学校として設立した。正面は昭和26年落成した校舎で、昭和32年には撮影位置に旧体育館が落成する。





笠縫村役場は、当初民家を借用していたが、明治28年上笠(現笠縫公民館)に新築移転。合併後は支所扱いとなり、その翌年解体新築され公民館に転用。





草津川の旭橋付近で馬駆けが行われ、多くの見物客を集めた。いっぽうの昭和の御大典記念に開設された渋川の常設競馬場は終焉を迎えており、かわってこの草津川での草競馬が地元民の娯楽となった。写真は川底部分を馬が駆け、堤防で見物する人々。





草津駅の駅舎は現在の橋上駅になるまでは、明治以来の平屋建築であった。これは昭和35年ころ南側に延長増築されるまでの駅舎で、基本的には明治末に規模が縮小された当時の駅舎とかわりない。





笠縫小学校は、笠縫付の1村1校の調整が遅れ、明治41年に1校に統合され上笠に新築移した。写真は昭和16年に笠縫国民学校と改称された当時からの校舎で、昭和34年に鉄筋二階建ての本館が新築された。





明治5年(1872)対岸大津との間に定期航路が開かれた山田港は、山寺川を遡上した元山田集落の西端付近にあったが(写真12参照)、水位が低下し昭和15年には湖岸寄りに移動した。その後、航路は昭和43年まで存続する。





対岸の比叡山に向かって西流する草津川を中心に、手前が草津・大路井の市街地。世基地(現草津第二小学校)横には敷島カンバスの工場が立地した。駅の西(奥)には直進する下笠通がみえるが、一面田園地帯であった。右方には昭和32年に進出した綾羽紡績草津工場がみえる。





バスのりばに東草津とあるが、これは現在の宮脇病院横の交差点国道が草津川の下をくぐる。ボンネットタイプのバスが小汐井神社方向から国道に出てきたところ。国道は当時から舗装されていたが、現在のようなアスファルトではなく、数メートルおきにメジの入るコンクリートタイプであった。
このトンネルが造られたのは昭和10年頃、周囲の風景、バスなどは、随分変わっているが当時の面影を残している





草津駅旧駅舎は明治以来のものを使用してきたが、昭和35年ころに南側に増築がなされた(「草津駅」表示板より左側部分)。駅前広場にはバスやタクシーが並んでいるが、ラッシュ時にはかなり手狭になってきていた。





びわ湖通りが開通し、シティホテルや商店が進出してきている草津駅西側であるが、当時は駅西口もなく、綾羽紡績の工場以外は田園地帯であった。右端に現在は野村運動公園となった野村池がみえる。



街道交流館のご協力により、写真、文章は「草津市刊・歴史写真集ずっとKUSATSU」から引用させていただきました